2015年10月1日に私の恩師のGottried Schatz先生(80歳)が永眠されました。私の研究者としての基礎を築いてくださった方です。深く感謝するとともに、哀悼の意を表し、ご冥福をお祈りします。
Schatz先生の教えとエピソードは、私の書籍にもたびたび書かせていただきました。
「水素水とサビない身体」(太田成男著)小学館 2013.11月出版 の159ページ より
次は何をするか?どう展開させるか?
独創性と言っても、ある日突拍子もないことを思いついて、ぱっとできるわけではありません。やはり、それまでの積み重ねが大切になってきます。
私は、1985年にスイス連邦のバーゼル大学のジェフ・シャッツ先生のもとへ留学しました。日本の職は辞して行きましたから、片道切符です。
バーゼル大学は、ミトコンドリア研究の中心のひとつで、日本人も多く希望していましたが、席がないということでほとんどの人が断られていました。ですから、シャッツ先生のもとへの留学は、周りの人からはうらやましがられました。
先に話しましたように、私は化学科で教育を受けましたから、生命科学については、自己流です。無手勝流といってもいいでしょう。
自己流で世界に通じるほど、この世界は甘くありません。
シャッツ先生からは、きっちりとトレーニングを受けることになりました。
独創的な研究をしたいとか、実用化できる研究をしたいとか、いきがっていても、実力が伴わなければ無理です。あるいは、自己流でやっていては時間ばかりかかって、競争相手に負けてしまうかもしれません。
シャッツ先生からは、週に1度1〜2時間、ふたりきりで指導を受けました。
「なぜ、これをやらなかったのか?」といった鋭い突っ込みが続きます。当時は英語もたどたどしいわけですから、地獄のような苦しみでした。
先生の指導後は、いつもふらふらでした。けれども、この指導によって、私の研究力は培われました。
シャッツ先生は、「シゲオはダイヤモンドの原石だ、ひとつひとつカットすることで、光り始めるのを見ているのは楽しいよ」と言ってくれました。
2013年のノーベル学医学賞を受賞したランディ・シェックマン博士も当時、シャッツ研究室に在籍しており、厳しいけれど楽しい研究生活でした。
次は何をしたらいいか。どう展開させるか。論文を投稿するときは、審査員たちを納得させるにはどうしたらいいか。
これらのトレーニングがなければ、水素の研究をはじめて2年足らずで「ネイチャー・メディシン」誌に最初の論文を発表できるはずもなかったのです。
水素研究でふつうにコーヒーを飲めるように
当時、研究室に所属する若い研究者たちで、夢を語りあったり、いろいろ討論したりすることがありました。
ミトコンドリアにこだわる私たちにシャッツ先生は「小さい、小さい。もっと大きなことを考えなくちゃ。もっと魅力的なテーマと遭遇したら、明日からいっさいミトコンドリア研究をやめろと私は言い出すかもしれないから、覚悟しておけ」と言い、私たちを驚かせました。
教授になって、研究内容以外でも、研究室運営などで困ることがあると、私には「シャッツ先生はなんて言うかな」といつも考える癖がついていました。
シャッツ先生と話をするときは、眠気などあってはなりませんから、コーヒーをガブガブ飲みながら話をする習慣になっていました。ところが、このコーヒーが条件反射の原因となってしまいました。
私は、パブロフの犬になってしまったのです。パブロフの犬とは、食事のときに、いつもブザーをならしていると、ブザーを聞いただけで唾液が出るというものです。
私はコーヒーを口にすると興奮してしまうようになってしまったのです。
カフェインなしのコーヒーでも同じですので、カフェインではなく、コーヒーなのです。
日本に帰ってからも、この状態が20年間も続きました。
ですから私はフルコースの料理では、必ずコーヒーではなく、紅茶をオーダーします。
けれども、時には訪問先でどうしてもコーヒーを飲まなくてはならないこともあります。すると、私の挙動から妻は「今日、コーヒー飲んだでしょう」と必ず当ててくるのです。
研究室でも、私がコーヒーを飲んだら注意警報です。何を言い出すかわからないので、皆が私とできるだけ接触しないようにします。
が、ある日、気がつくとコーヒーを飲んでも、妻が気づかないくらいになりました。
それは、水素の研究を始めてしばらく過ぎてからです。水素研究をして初めて、シャッツ先生を卒業したのだと思いました。
「ミトコンドリアのちから」(瀬名秀明、太田成男共著)(角川書店)2007年9月 125ページより
ミトコンドリアDNAは1968年にゴットフリート・シャッツ先生によって発見された。わずか40年ほど前のことに過ぎない。シャッツ先生はその後もミトコンドリアの膜輸送に関する研究で業績を上げた。シャッツ先生は筆の立つ人で、ミトコンドリアの研究の歴史を見事な総説論文にまとめて発表したこともあるし、学術雑誌に連載していた科学エッセイは好評のため書籍化されたりもしている。
思い出話になるが、定年前にリタイアするとの噂を聞いて、1998年、シャッツ先生が主催したスイスのレ・ディアブルレのゴードン会議に太田もかけつけた。定年前にもかかわらずリタイアするというので、なぜかと質問した。
「これからやりたいことがあるんだ」
と教授はいった。
「バイオリンだよ」
シャッツ先生はバイオリン弾きで、若いときにはウィーンの音楽学校を卒業している。ウィーンフィルのバイオリニストだった時期もあるという。そのような経歴を太田は人づてに聞いていた。シャッツ先生は研究者として一流だったが、彼はバイオリニストとしても一流になりたかったのだな、と太田はそのとき思ったものである。
シャッツ先生は世界中に多くの優れた研究者を育てた。日本人の弟子には、バーゼル大学在任中だけでも、太田の他に大橋彰、長谷俊治、大場雅行、遠藤斗志也らがいる。シャッツ先生は退任後、福岡、大阪、東京を訪れ、その弟子全員と旧交を深めた。退任後は「自分の実験結果に関する講義はしない」と宣言し、世界中からの依頼をすべて断っていたが、一度だけ例外的に九州大学で講義を引き受けてくれたのだった。